9999年01月01日

東ローマ関連お奨め書籍

東ローマ関連の書籍です。
東ローマについての理解を深める助けになります。

これだけ並べると壮観ですね。★印が付いている本が佐吉の
お奨めです。

入門編:いずれも通史です。

★生き残った帝国ビザンティン★が一番読みやすく分かりやすいと思います。斯界の権威井上浩一先生が書かれています。

黄金のビザンティン帝国は、絵・写真が多くビジュアルで
理解するのに良いです。生き残った・・・を読んだ後にこれを
読むとやや物足りない?そういう意味では一番最初に読むべき
かもしれません。



中級編:やや読み応えあり。より深い理解をしたい方向け。

★ビザンツとスラブ★は井上浩一先生著です。
通史でありながらかなり細かいところまで著述されています。
これを読めば東ローマ史の全体像はOK。

ビザンツ帝国とブルガリアは東ローマ帝国及び隣接するブルガリア帝国の社会制度の比較研究です。
ブルガリア地方がローマ世界帝国から分離していた数百年の間に両国にどのような変化が起きていたのか?

★ビザンツ 幻影の世界帝国★は、12世紀の東ローマ最後の繁栄時代の皇帝マヌエル1世の時代の物語です。



ヨーロッパ世界の誕生は佐吉一番のお気に入りの本です。
東ローマ帝国の中近東・西欧に対する支配権が時代の経過の中で
少しづつ変質・解体していく様がよく理解できます。

★ビザンツ皇妃列伝★は、東ローマ初期から末期の歴史をそれぞれの皇妃の人生を通して浮彫りにしていきます。ユスティニアヌスの皇后テオドラ以外にも色々な女性がいたんですね。

★ビザンツの政治的イデオロギー★・・・1,000年の歴史がありますからそりゃ政治的イデオロギーも変化しますよね。ローマ帝国の政治的イデオロギーがどのようにビザンツ的に変化していくか・・・そのような目で読むとまた面白いですよ。





上級編:歴史を極めたい方向け

すみません、これは私は読んでいません。老後の楽しみに
とっています。

posted by 佐吉 at 09:49| Comment(1) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月24日

始めに:東ローマの印象

歴史の中には語られることの少ない人物、物事が
存在しますね。

時間的、空間的様々な制約があるためなのでしょうが。

その語られることの少なさのために逆に人々の興味を
引くということがあります。
例えば豊臣秀吉の実弟豊臣秀長は、堺屋太一氏が、

・秀吉の弟であることから想定される歴史像の大きさ
・とりあげられること、語られることの少なさ

に興味を持って小説を書きました。


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私も東ローマ帝国に対して同じ感覚を抱くのです。

栄光のローマ帝国の中世における形でありながら、
語られることが非常に少ないと感じます。

ローマの概説書等でも
@「ローマ帝国の東西分裂」の次のページが
A「西ローマ帝国の滅亡」更にその次のページが
B「東ローマ帝国帝国の滅亡」

ってA、Bの間が約1,000年空いているんですけれど・・・。

その間に何が起こったかについて
思いを馳せていきましょう。

尚、このブログでは395年以降のローマ帝国は、
ローマ帝国との区別のために便宜上、東ローマ帝国と呼びます。
また、後世の呼び名であるビザンツ帝国、ビザンティン帝国は
極力使わない方針ですのでご了承下さい。
ラベル:東ローマ
posted by 佐吉 at 21:49| Comment(1) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月04日

ギボンの東ローマ皇帝評価 その2

ギボンのローマ帝国衰亡史についてです。
基本的に、東ローマ帝国への点は辛いんです。


7世紀のヘラクレイオス帝の治世の叙述が終わったところで
「帝国の衰亡の五世紀間はすでに経過したが(中略)
 八百年を越える年月がまだ残っている。
退屈極まる衰弱と悲惨の(中略)物語の連続
「冗長な弱々しい糸」
「(東ローマ史を書く事が)実りの乏しい憂鬱な作業」
いやはや、えらい言われようです。


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ローマ帝国〜東ローマ帝国の歴史に立ち入ると、大帝国の
滅亡ドラマの叙述がいつのまにか、ギリシャの中小国家の
歴史に摩り替わってしまうところにギボンも
頭を悩ませたようです。

ヘラクレイオス帝までは、ローマ皇帝の皇統に沿っての
叙述でしたが、ヘラクレイオス帝以後は、
アラブ、ロシア、モンゴル等の周辺諸民族毎の
東ローマ帝国との関係の叙述に切り替わっています。


・・・話が少しそれてしまいましたが、
ヘラクレイオス帝以降でギボンが評価している
皇帝は、以下の文章からおおよそ読み取れます。

「われわれはビザンティウムの歴代の系譜の圧倒的大部分の
 者に人類への愛情をいかにしても認めることはできない。
 ヨハネス・コムネノスの徳目のみが純粋かつ柔和で
 あったが、この高貴な皇帝に前後する最も著名な皇帝たちも
 利己的な政策の入り組んだ血塗れの道程を多少とも
 功名かつ精力的に辿ったにすぎない。

 イサウリア朝のレオ三世、バシリウス1世、アレクシウス・
 コムネノス
の、またテオフィルス、バシリウス2世
 マヌエル・コムネノス
ら(中略)彼らへの尊敬と非難が
 ほとんど均衡するに反して
 残る有象無象の皇帝たちはひたすら
 後世から忘却される(以下略)


いかがでしょうか?
面白い事に、現在我々が東ローマの通史で
一度は接する事となる皇帝とほぼ重複しているのでは
ないでしょうか?

テオフィルスって誰だぁ?とも思いますが。
(9世紀の皇帝で偶像破壊運動を最後に行ったり、学芸の
 復興を行った毀誉褒貶のある人物です。)


縮約版の一つです↓↓



この記事のギボンの叙述は筑摩書房版に準拠しています。

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posted by 佐吉 at 13:59| Comment(16) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月01日

ギボンの東ローマ皇帝評価 その1

ギボンのローマ帝国衰亡史を知っていますか?


2世紀のローマ帝国全盛の頃(マルクスアウレリウス帝の頃)から
筆を起こし1453年のコンスタンティノープルの陥落までを
記述した一大歴史書です。


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出版は1776年〜1788年にかけて。
完結までに時間がかかったのですね。


200年以上前の書物ですから今の研究・常識等から
考えると違和感を覚える箇所もありますが、
ローマ帝国の歴史書の基本ということで押さえておいた方がよい本です。


10数年前に筑摩書房より詳細な訳がされた本が、
全11巻で発売されています。
難解な訳、その分量から途中で読むのを挫折してしまった方も
多いのではないでしょうか。


縮約版は、岩波文庫、東京書籍、PHP研究所等からも
刊行されているようですので、こちらを一読下さい。

縮約版の一つです↓↓


筑摩版全11巻の内容イメージは以下のとおりです。

T .五賢帝末期から軍人皇帝時代
U .軍人皇帝時代からの立ち直りから
   コンスタンティヌス大帝まで
V .コンスタンティヌス大帝からユリアヌス帝まで
W .ユリアヌス帝からテオドシウス大帝まで
X .ローマ帝国東西分裂・アッティラの侵攻
Y .西ローマ帝国の滅亡・東ローマ帝国の発展
Z .ユスティニアヌス大帝
[ .ユスティニアヌス後の混乱からカール大帝の即位まで
\ .イスラムの勃興と帝国周辺の諸民族の自立
] .十字軍について
]T.東ローマ帝国の滅亡

ヘラクレイオス以後の描写はかなり、簡略化されています。
バルカンと小アジアを領有するのみとなった帝国には、
ギボンも興味が薄れたのでしょう。

おまけにかなり、東ローマ帝国には否定的な叙述が目立ちます。

まあ、そのような中で東の皇帝にどのような評価を下したか
非常に興味を覚える処です。以下次回。

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posted by 佐吉 at 08:30| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月30日

最後のローマ皇帝:大帝ユスティニアヌス その3

ローマ皇帝としての責務を自覚するユスティニアヌス。

遂に彼は、ローマ法大全の編纂を越える大事業に
乗り出します。

すなわち、地中海世界の東西に渡るローマ帝国の復活です。

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533年、ユスティニアヌスは、内紛が生じている
北アフリカのヴァンダル王国への遠征を行います。
翌年、ヴァンダル王国は降伏。

535年、今度はイタリアに兵を送り東ゴート王国との
戦争を開始します。これはまずかった・・・。東ゴート王国は執拗に抵抗、なんとイタリアが最終的に併合されたのは、554年!
戦争が始まってから19年が経っていました。

554年に更にはスペインの西ゴート王国へも兵を送り、
スペイン東南部にあたる地域を奪回。

今の、イギリス、フランス、スイス、スペイン、ポルトガルに
あたる地域は未征服のままでしたが、
とにかく地中海全域の支配を回復。

ローマ帝国は一時とはいえ復活したかに見えました。


しかし彼の行った事業は非常に規模の大きいものであっただけに、
東ローマ帝国に与えたマイナスも非常に大きなものでした。

1.戦争によるイタリアの荒廃。

  東ローマが征服したイタリアは、長期の戦争で人口が
  わずか500人になってしまったそうです。
  かっての「世界の首都」   が・・・
  ローマ共和制以来の元老院も、この時に消え去りました。



2.重税により領土は疲弊⇔防衛力の弱体化

  戦争費用を賄うため+征服事業の黒字転換を急ぐあまり、
  領土内に重税をかけたため経済は疲弊。
  征服した地域のローマ帝国離れ、地中海世界の解体を促進する
  結果に・・・。
  パンとサーカスも徐々に削減されていき618年に最終的に
  取りやめられます。



3.中東、バルカン半島の防備が疎かに。

  長期の戦争期間中、ニ正面作戦を避けるために、
  これらの地域では、守勢に立ちました。
  金で平和を買い、軍備は手薄となりました。
  結果的に、ユスティニアヌスの後の時代に、

  ・ペルシアと長期間の戦争
  ・スラブ民族のバルカン半島進入

  につながっていきます。


  これらの要因が、重なり合い
  ユスティニアヌスの後の時代になると、
  東ローマ帝国は、周辺の国、民族から袋叩きにされます。

  背伸びして領土を広げすぎてしまったがための悲劇と
  いえるでしょう。
  この後東ローマ帝国は、急速に古代ローマ帝国の面影を
  無くしていきます。

  ユスティニアヌスは、華々しい征服事業を行い地中海一帯を
  おさめる大帝国の支配者として世を去ることが
  幸運にもできました。
  彼を「最後のローマ皇帝」
  とする所以です。




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posted by 佐吉 at 07:44| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

最後のローマ皇帝:大帝ユスティニアヌス その2

伯父の死により東ローマ皇帝となったユスティニアヌス。

彼の目の前にあった東ローマ帝国はどのような
国であったでしょうか。


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領  土:地中海の東半分
     (バルカン、小アジア、シリア、エジプト)

言  語:ラテン語
     (ユスティニアヌス自身、バルカンの生まれですが、
      ラテン語を話します。)

市民生活:無料で食料の配給+娯楽施設として
     サーカス、浴場あり。


これはまだまだローマ帝国の面影を色濃く残していますね。

ユスティニアヌス自身もローマ皇帝としての責務を
強く自覚していた人だったようです。





彼が即位すると急に東ローマ帝国の年表がにぎやかに
なってきます。
彼は生活も質素であり、政務にも非常に熱心で
「不眠不休の皇帝」と言われていました。

彼の業績の中でも大きなものの一つが
ローマ法大全の編纂です。

・即位の半年後には、法典編纂の委員会を設け、約1年で
 歴代皇帝の法令をまとめた勅令集
 完成させました。

・その後法律の注釈書「学説彙簒」
 彼の出した法令「新勅令集」
 法律の教科書「法学提要」が編纂されました。

これらを総称してローマ法大全といいます。
これらは後世に受け継がれていきます。     


現代ヨーロッパ諸国の法律の基本となっているローマ法。
その源となっているのが、実はこのローマ法大全なのです!!!


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posted by 佐吉 at 08:14| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月23日

最後のローマ皇帝:大帝ユスティニアヌス その1

東ローマ帝国史上、有能な皇帝は数多く存在しましたが
「大帝」という称号を与えられているのは、
彼一人です。


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まあ、大帝という称号が授けられている皇帝自体、欧州史全体に
みてもそう数多くはありません。

それどころか、私の思いつく限り列挙していきますと、

コンスタンティヌス大帝
テオドシウス大帝   
ユスティニアヌス大帝
カール大帝      
オットー大帝     

この5人くらいではないでしょうか。


それだけ、大きな事業をなしえた皇帝で
あったといえるでしょう。


ユスティニアヌスは、483年にバルカン半島のマケドニア近傍で
生まれます。貧農の子だったそうですが、
軍人であった伯父のユスティヌスによって
コンスタンティノープルへ呼ばれます。これが507年。


以後、コンスタンティノープルで教育を受けます。


折りしも伯父ユスティヌスが、皇帝として518年に即位。
ユスティニアヌスも側近として重用され政治の経験を積みます。
そして527年にユスティヌスの死に伴い、
皇帝として即位します。


この時ユスティニアヌス45歳。
彼の治世がここに始まります。






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posted by 佐吉 at 16:51| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月21日

激動の人生:ヘラクレイオス1世 その3

シリア、エジプトをササン朝ペルシアに
奪われたヘラクレイオス1世。
9年間の傍観の後に、両地方を回復するために
雄々しく立ち上がります。

時に622年。

9年間の傍観の後に立ち上がったのは、
姪のマルティナとの近親結婚を国家に認めさせようと
考えたため・・・とも考えられています。

ヘラクレイオスは、国境地帯を数年間転戦した後・・・
ペルシアの首都クテシフォンを一気について決着を
つけようとします。

ドラマチックですね。
敵首都を一気につく事でシリア、エジプト駐屯のペルシアの
兵力を引き上げさせようとしたのでしょうか・・。


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彼の目論見はあたります。628年にペルシアは全面降伏。
奪い去られていたシリア・エジプト及び
キリストが磔にされたという聖十字架の返還を受けます。
東ローマ帝国は再び地中海を支配する大国となりました。


戦勝による栄光、それにより愛する姪との結婚も認められ
ヘラクレイオスの人生はこの時、絶頂であったでしょう。


・・・・しかし残念ながらその絶頂は長続きしませんでした。
中東の辺境、アラビア半島では当時一つの宗教が
勃興していました。
イスラム教です。創始者ムハンマドは632年に
なくなりますが、その後この宗教は猛烈な勢いで
拡大を始め、ペルシア、東ローマ両帝国に襲い掛かります。



636年シリアのヤルムークにて東ローマ軍とイスラム軍が
激突。東ローマは大敗します。
これが、数百年続いたローマのシリア支配の最後となりました。
ヘラクレイオス曰く
「シリアよさらば!なんとすばらしい土地を敵に渡す事か!」と叫んだそうです。


彼の功業は10年持ちませんでした。この後もイスラムの進出は
続きましたが、彼はなすすべがないまま、640年に病没します。

エジプトは彼の死後641年にイスラム帝国のものとなりました。
プトレマイオス朝エジプトの滅亡より実に600年のローマの
エジプト支配。遂に終焉を迎えます。

ギボンは、ローマ帝国衰亡史の中でこう述べています。
「ヘラクレイオス以降ビザンティウムの舞台は縮小し、暗転する。」と。

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posted by 佐吉 at 10:29| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月14日

激動の人生:ヘラクレイオス1世その2

東ローマ皇帝となったヘラクレイオス1世。

しかし彼の時代から帝国の領土は決定的に縮小に向かいます。
まず、ササン朝ペルシアとの戦争により、シリアとエジプトを
奪われます。

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613年、ヘラクレイオスの率いる軍がペルシアに大敗したのです。
この時、イエスキリストが磔になったという聖十字架もペルシアに
持ち去られます。


シリアとエジプトの喪失は、東ローマ帝国にとって大きな
ダメージでした。
これらの東方の属州が、当時最も文化も進んでおり、
豊かな地域とされていたからです。

ゲルマン民族の進入に東ローマ帝国が耐えられたのは、
これらの豊かで無傷の東方の属州があったればこそです。

特にエジプトはローマ帝国最大の穀倉地帯であり、
首都で市民への食糧供給を行う際に絶対に必要な属州でした。

これに対してヘラクレイオスは何をしたかというと・・・
10年近く何もしませんでした。
これが、英雄の謎の無気力とされています。

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posted by 佐吉 at 08:31| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月09日

激動の人生:ヘラクレイオス1世 その1

7世紀に皇帝となったヘラクレイオス1世。
彼の時代から、東ローマ帝国は重大な歴史の転換点に
本格的に突入します。


ヘラクレイオス朝の項目でも少し触れましたが、
彼の時代から東ローマ帝国は、
地中海を湖とする大国から
バルカン、小アジアを核とする軍事国家へ転換していきます。


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彼はカルタゴの出身です。
同名の父親が、カルタゴの総督でした。


7世紀始め、東ローマ帝国は暴君と呼ばれるフォーカス帝に
支配されていました。彼は軍隊の反乱から成り上がったために、
確固たる後ろ盾を持たず、このため強権的な政治を行い、
政治が乱れていました。


このような状況を見てヘラクレイオス(父)は、皇帝打倒のため
挙兵。ヘラクレイオス(後の皇帝)に兵を授け
コンスタンティノープルに向かわせます。

コンスタンティノープルでフォーカスとヘラクレイオスは対決。
結構有名なやり取りが、以下のとおり。
ヘラクレイオス「お前が国家を統治したあげく、この様か。」
フォーカス  「ならお前はもっとうまく納められるというのか。」

この直後にフォーカス帝は部下に殺され、
ヘラクレイオスは皇帝となります。


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posted by 佐吉 at 06:53| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

ヘラクレイオス朝の時代

7世紀のヘラクレイオス王朝がいわゆるローマ帝国の古代から中世への
重要な転換点であった事は、間違いないでしょう。

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まず領土ですが・・・・
ヘラクレイオス王朝成立時は、東ローマ帝国の領土は、地中海を
包み込んでいました。
その主な領土は、スペインからイタリア、バルカン半島、小アジア、シリア、エジプト、北アフリカでした。

ところが、ヘラクレイオス朝滅亡時には、バルカン半島、小アジア、イタリアの一部と著しく縮小しています。

言語も変わりました。
公用語はラテン語からギリシャ語に変わります。

要するにヘラクレイオス朝の100年間の間に東ローマ帝国は、
文化的にも領土的にもギリシャを中心とする国家に変貌したのです。

ギボンもローマ帝国衰亡史の中で述べています。
「ヘラクレイオスの時代以後、ビザンティウムの縮小し、
暗転する。」
と述べています。
確かにいわゆるローマ帝国らしくはなくなりましたね。


ヘラクレイオス朝については、下記の本が詳しいです。
ユスティニアヌスからヘラクレイオス朝全般について
述べられています。
西欧との関係が、ヘラクレイオス朝時代の中でもどんどん
変化していきます。
7世紀の西欧における東ローマ皇帝の位置づけが
わかって面白いですね。
表紙が無いのが・・・残念です。


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2008年12月06日

カール大帝のローマ帝国との関係

東ローマ帝国が中世に存在していた頃、
西欧にもローマ帝国がありました。


8世紀に有名なカール大帝が建設したローマ帝国(=フランク帝国)
10世紀に始まるオットー大帝の神聖ローマ帝国です。
両者ともローマ教皇より皇帝の位を授かり、ローマ帝国を
称しました。


特にカール大帝の時には東ローマも衝撃を受けました。
それまで「皇帝」はヨーロッパにただ一人であったからです。


「王」はそれまでにも数知れずいましたが、「皇帝」は
ローマ帝国の系統を引く東ローマ帝国にのみ
存在していたからです。


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昔のローマ帝国の時代にも属州で反乱を起こし「皇帝」を名乗る
人物が数多くおりましたが、当時の東ローマ帝国政府にも
カール大帝はそのような反乱を起こした人物の一人と
思えたのではないでしょうか?

東ローマ政府は、この時カール大帝の「皇帝」の位は認めました。
但し条件つきです。「フランク人の皇帝」として認めたのです。


ローマ人の皇帝はただ一人。という建前を死守したのです。


フランク人というとゲルマンの一部族ですが
ローマ人という概念は、世界を支配する帝国の国民という意味と
なります。同じ○○人と称しても概念として並列ではないのです。


ローマ的世界の部分的な支配者がフランク皇帝である、そのような
位置づけです。

皇帝の位は認めるが対等な存在とは認めないという非常に
手の込んだ対処の仕方ですね。

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2008年12月05日

鉄人皇帝 バシレイオス2世その2

皇帝の責務に目覚めてからのバシレイオス2世は、戦に
明け暮れます。

内乱の鎮定、外征の再開・・・年代記はこう伝えています。
「彼にとって(戦からの)帰還の時期は、作戦が成功した
 ときであった。彼は平然と夏の暑さ、冬の寒さに耐えた。
 あらゆる欲望を厳しく抑えた鋼のような男であった。」
 (「ビザンツとスラブ」中央公論社より引用)


かっこいいですよね。
この人は、その生涯で様々な事を行いました。
いくつかエピソードを紹介しましょう。

・妹をロシアのウラジーミル公に嫁がせ、正教圏を広げる。

・ブルガリア王国と戦う。捕虜にした15,000人の
 ブルガリア人の目を繰り抜き送り返した。
 ブルガリア人殺しと呼ばれる。

・大土地所有の進展にも待ったをかけ農民を保護。なんと
 アウグトゥス帝時代の土地所有の実態にまで遡って、
 土地を没収した事もあるようです。

・宮殿の蔵には金銀財宝が積み上げられ、これ以上
 はいらなくなったので、地下を掘り下げて拡張。


・・・・ローマ教皇から皇帝の戴冠を受けようと目論んだことも
あるようです。神聖ローマへの対抗措置ですな。

この人の時代はまさに東ローマの最盛期です。
領土は、
・東はアルメニア〜西は南イタリア
・北はドナウ川〜南は地中海の島々

広大な国家は優れた専制君主により、
統治されていました。
まさに東ローマ帝国の完成した時代です。


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2008年12月01日

高校の時の東ローマの授業

えー閑話休題。

仕事で疲れていますので、肩の凝らない話を。

高校時代の世界史の先生で、とてもローマ帝国好きの
先生がいました。

イタリアに旅行に行き、ローマ市のコロッセウムを見た時は
泣いた・・という熱血の世界史先生でした。

当然ローマ帝国に関する授業も白熱。
「ローマが西欧文明の源なんです!」
と熱く語っておりました。

当然東ローマについても熱く語ってくれるかと
楽しみにしていましたが・・・・


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@まず総論として、先生曰く
 「とにかく衰えていく一方なんです。」
 ⇒あのー帝国の最盛期は10世紀、11世紀なんですけど。
  12世紀も結構栄えていたのですが・・・。

Aマケドニア朝の最盛期について・・・・
 「これは文化の最盛期なんです。」
 ⇒いや、軍事も調子良かったし。ブルガリアを滅ぼすとか。
 
Bマケドニア朝の領土については・・・・
 「ユスティニアヌスの時よりも(一瞬の間を置いて)広いんです。」
 ⇒いや、「ひたすら衰えていく一方」っていいませんでしたか?
  文化の最盛期なんでしょ。


 今でもこの授業を覚えているのですが・・・悔しいです!
posted by 佐吉 at 21:47| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月30日

鉄人皇帝 バシレイオス2世その1

東ローマの歴史は、繁栄と衰退を繰り返しています。

6世紀の大帝ユスティニアヌスの時代が
最初の頂点とすると、その後、7〜8世紀の暗黒時代を経て
徐々に国力が回復していき次の絶頂期が11世紀の前半。

その時代の皇帝がバシレイオス2世なのです。

私は歴史書に書かれたこの人の評伝を読むたびに鉄人という言葉が
浮かびます。
この人の生涯はドラマチックであり、かつ栄光に
満ちています。

彼は、当時の東ローマ帝国の王家マケドニア朝の
直系として生まれます。

直系ではありますが、彼の父ロマノス2世が亡くなった時には、
まだ幼く、その後は、ニケフォロス2世、ヨハネス1世という
優秀ですが、血のつながらない軍人皇帝が、即位します。

18歳で即位した直後に貴族の反乱が起こります。
これを契機に、「貴族は信用できない。自分が政治を行わねば。」
と考えます。
享楽の日々を送っていた皇帝は、「皇帝の責務」に目覚めるのです。

これが「バシレイオスの改心」と
言われています。


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2008年11月29日

ローマ帝国の系譜その2

ローマ帝国の系譜は、東ヨーロッパでは、

東ローマ(ビザンツ)帝国を通して、ロシア帝国
受け継がれました。

では西ローマの流れは・・・・

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西ローマ帝国消滅後は、

カール大帝のローマ帝国復興⇒オットーの神聖ローマ帝国建設とつながっていきます。

1806年の神聖ローマ帝国の
解体後は、神聖ローマ帝国の皇帝の家であったハプスブルグ家が、
オーストリア=ハンガリー帝国を建設します。

ドイツでは、神聖ローマ帝国の故地と言うことから19世紀には、
ドイツ帝国が建設されます。

ヒトラーのドイツは第3帝国とも言われますが、
これは、神聖ローマ帝国⇒19世紀建国のドイツ帝国⇒ヒトラーの
ドイツという流れを意識してのものです。


ナポレオンのフランス帝国・・・これはややローマ帝国から続く
「帝国」の流れとしては、唐突な感じを個人的には受けます。

このように西欧では、東欧と違い様々な国がローマの様々な
流れの中から帝国を称している事がわかると思います。

個人的には、
東ローマ⇒(ローマ+スラブ) ⇒ロシア帝国⇒ソビエト連邦
    ⇒現代のロシア

西ローマ⇒(ローマ+ゲルマン)⇒西欧文明 
    ⇒西欧文明トップとしてのアメリカ

という見方もできると思います。やや乱暴だと自覚してもいますが。
posted by 佐吉 at 10:32| Comment(1) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

ローマ帝国の系譜

ローマの歴史は非常に長いですね。

紀元前7世紀にイタリア中部に都市国家ローマが誕生し、
やがて地中海一帯を押さえて、ローマ帝国となり、
東西分裂して最終的に滅亡したのが1,453年。

実に2,000年の年数が経っています。

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それだけではありません。最後の東ローマ皇帝の姪が
モスクワ大公国に嫁いだ事を根拠に、モスクワ大公は、
以降「ツァーリ」=「カエサル」=皇帝を名乗ります。

これが後のロシア「帝」国の起こりです。
モスクワは第3のローマと呼ばれています。

ロシア帝国は歴史上ではつい最近といってよい1917年まで
存続していました。
たった90年前ですね。

まだまだあります。(以下続く)




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posted by 佐吉 at 06:59| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月27日

大帝「ユスティニアヌス」

東ローマ帝国史上、唯一の大帝ユスティニアヌス。

彼は、ゲルマン蛮族から
北アフリカ、イタリア、スペインの一部を奪取し、
地中海をもう一度「ローマの湖」とします。

凄いですよね。地図で見る限りでは領土が倍増です。

古代ローマに心酔するユスティニアヌスにとっては、
満足の行く成果であったのでしょう。


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ただ、彼の死後東ローマはかえって弱体化してしまったように
感じます。

それまでは、宿敵らしい宿敵といえばササン朝ペルシアくらいで
あったのでしょうが、
イタリアでは、ランゴバルド族
スペインでは、西ゴート族
バルカンでは、スラブ民族
と領土を広げたがために袋叩きに合っていますね。
で、弱ったところで、イスラム教にシリア、エジプト、
北アフリカを奪われた・・・と。

こうしてみると彼の事業は壮大なバブルであったといえるでしょう。
彼の死でバブルもはじけてしまったのですな。

ただし、周辺世界にこれほど大きな影響を与えた
東ローマ皇帝は、後にも先にも彼一人でしょう。
世界の動向を左右する偉大なるローマ皇帝。その最後の一人が
彼、ユスティニアヌスであったのかもしれません。


posted by 佐吉 at 22:53| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月26日

ローマから東ローマへの転換点A

ローマから東ローマへの転換点について引き続き考えてみます。

東ローマ帝国の特徴と、その特徴が現れてきた時期を以下に
記載します。

@ローマ人の国
 ⇒紀元前7世紀の建国当初より。

A当初は、東西に皇帝が分立し、東ローマ帝国はその東方部分。
 ⇒395年に基本の形が出来る。そのそもそものルーツは、
  3世紀後半のディオクレティアヌス帝の帝国4分統治がルーツ。

Bコンスタンティノープルを首都とする。
 ⇒330年に遷都。

Cギリシア語を主要な言語とする。
 ⇒7世紀のヘラクレイオス朝以降。

Dキリスト教を国境とする。
 ⇒392年に国教化。

F領土は主に、バルカン半島と小アジア
 ⇒8世紀に大枠が固まる。

こんなところでしょうか。
バラバラですね。4世紀〜8世紀頃まで緩やかに
変化が進んでいったということでしょう。

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posted by 佐吉 at 07:14| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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