2009年01月01日

ギボンの東ローマ皇帝評価 その1

ギボンのローマ帝国衰亡史を知っていますか?


2世紀のローマ帝国全盛の頃(マルクスアウレリウス帝の頃)から
筆を起こし1453年のコンスタンティノープルの陥落までを
記述した一大歴史書です。


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出版は1776年〜1788年にかけて。
完結までに時間がかかったのですね。


200年以上前の書物ですから今の研究・常識等から
考えると違和感を覚える箇所もありますが、
ローマ帝国の歴史書の基本ということで押さえておいた方がよい本です。


10数年前に筑摩書房より詳細な訳がされた本が、
全11巻で発売されています。
難解な訳、その分量から途中で読むのを挫折してしまった方も
多いのではないでしょうか。


縮約版は、岩波文庫、東京書籍、PHP研究所等からも
刊行されているようですので、こちらを一読下さい。

縮約版の一つです↓↓


筑摩版全11巻の内容イメージは以下のとおりです。

T .五賢帝末期から軍人皇帝時代
U .軍人皇帝時代からの立ち直りから
   コンスタンティヌス大帝まで
V .コンスタンティヌス大帝からユリアヌス帝まで
W .ユリアヌス帝からテオドシウス大帝まで
X .ローマ帝国東西分裂・アッティラの侵攻
Y .西ローマ帝国の滅亡・東ローマ帝国の発展
Z .ユスティニアヌス大帝
[ .ユスティニアヌス後の混乱からカール大帝の即位まで
\ .イスラムの勃興と帝国周辺の諸民族の自立
] .十字軍について
]T.東ローマ帝国の滅亡

ヘラクレイオス以後の描写はかなり、簡略化されています。
バルカンと小アジアを領有するのみとなった帝国には、
ギボンも興味が薄れたのでしょう。

おまけにかなり、東ローマ帝国には否定的な叙述が目立ちます。

まあ、そのような中で東の皇帝にどのような評価を下したか
非常に興味を覚える処です。以下次回。

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posted by 佐吉 at 08:30| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月30日

最後のローマ皇帝:大帝ユスティニアヌス その3

ローマ皇帝としての責務を自覚するユスティニアヌス。

遂に彼は、ローマ法大全の編纂を越える大事業に
乗り出します。

すなわち、地中海世界の東西に渡るローマ帝国の復活です。

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533年、ユスティニアヌスは、内紛が生じている
北アフリカのヴァンダル王国への遠征を行います。
翌年、ヴァンダル王国は降伏。

535年、今度はイタリアに兵を送り東ゴート王国との
戦争を開始します。これはまずかった・・・。東ゴート王国は執拗に抵抗、なんとイタリアが最終的に併合されたのは、554年!
戦争が始まってから19年が経っていました。

554年に更にはスペインの西ゴート王国へも兵を送り、
スペイン東南部にあたる地域を奪回。

今の、イギリス、フランス、スイス、スペイン、ポルトガルに
あたる地域は未征服のままでしたが、
とにかく地中海全域の支配を回復。

ローマ帝国は一時とはいえ復活したかに見えました。


しかし彼の行った事業は非常に規模の大きいものであっただけに、
東ローマ帝国に与えたマイナスも非常に大きなものでした。

1.戦争によるイタリアの荒廃。

  東ローマが征服したイタリアは、長期の戦争で人口が
  わずか500人になってしまったそうです。
  かっての「世界の首都」   が・・・
  ローマ共和制以来の元老院も、この時に消え去りました。



2.重税により領土は疲弊⇔防衛力の弱体化

  戦争費用を賄うため+征服事業の黒字転換を急ぐあまり、
  領土内に重税をかけたため経済は疲弊。
  征服した地域のローマ帝国離れ、地中海世界の解体を促進する
  結果に・・・。
  パンとサーカスも徐々に削減されていき618年に最終的に
  取りやめられます。



3.中東、バルカン半島の防備が疎かに。

  長期の戦争期間中、ニ正面作戦を避けるために、
  これらの地域では、守勢に立ちました。
  金で平和を買い、軍備は手薄となりました。
  結果的に、ユスティニアヌスの後の時代に、

  ・ペルシアと長期間の戦争
  ・スラブ民族のバルカン半島進入

  につながっていきます。


  これらの要因が、重なり合い
  ユスティニアヌスの後の時代になると、
  東ローマ帝国は、周辺の国、民族から袋叩きにされます。

  背伸びして領土を広げすぎてしまったがための悲劇と
  いえるでしょう。
  この後東ローマ帝国は、急速に古代ローマ帝国の面影を
  無くしていきます。

  ユスティニアヌスは、華々しい征服事業を行い地中海一帯を
  おさめる大帝国の支配者として世を去ることが
  幸運にもできました。
  彼を「最後のローマ皇帝」
  とする所以です。




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posted by 佐吉 at 07:44| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

最後のローマ皇帝:大帝ユスティニアヌス その2

伯父の死により東ローマ皇帝となったユスティニアヌス。

彼の目の前にあった東ローマ帝国はどのような
国であったでしょうか。


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領  土:地中海の東半分
     (バルカン、小アジア、シリア、エジプト)

言  語:ラテン語
     (ユスティニアヌス自身、バルカンの生まれですが、
      ラテン語を話します。)

市民生活:無料で食料の配給+娯楽施設として
     サーカス、浴場あり。


これはまだまだローマ帝国の面影を色濃く残していますね。

ユスティニアヌス自身もローマ皇帝としての責務を
強く自覚していた人だったようです。





彼が即位すると急に東ローマ帝国の年表がにぎやかに
なってきます。
彼は生活も質素であり、政務にも非常に熱心で
「不眠不休の皇帝」と言われていました。

彼の業績の中でも大きなものの一つが
ローマ法大全の編纂です。

・即位の半年後には、法典編纂の委員会を設け、約1年で
 歴代皇帝の法令をまとめた勅令集
 完成させました。

・その後法律の注釈書「学説彙簒」
 彼の出した法令「新勅令集」
 法律の教科書「法学提要」が編纂されました。

これらを総称してローマ法大全といいます。
これらは後世に受け継がれていきます。     


現代ヨーロッパ諸国の法律の基本となっているローマ法。
その源となっているのが、実はこのローマ法大全なのです!!!


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posted by 佐吉 at 08:14| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月23日

最後のローマ皇帝:大帝ユスティニアヌス その1

東ローマ帝国史上、有能な皇帝は数多く存在しましたが
「大帝」という称号を与えられているのは、
彼一人です。


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まあ、大帝という称号が授けられている皇帝自体、欧州史全体に
みてもそう数多くはありません。

それどころか、私の思いつく限り列挙していきますと、

コンスタンティヌス大帝
テオドシウス大帝   
ユスティニアヌス大帝
カール大帝      
オットー大帝     

この5人くらいではないでしょうか。


それだけ、大きな事業をなしえた皇帝で
あったといえるでしょう。


ユスティニアヌスは、483年にバルカン半島のマケドニア近傍で
生まれます。貧農の子だったそうですが、
軍人であった伯父のユスティヌスによって
コンスタンティノープルへ呼ばれます。これが507年。


以後、コンスタンティノープルで教育を受けます。


折りしも伯父ユスティヌスが、皇帝として518年に即位。
ユスティニアヌスも側近として重用され政治の経験を積みます。
そして527年にユスティヌスの死に伴い、
皇帝として即位します。


この時ユスティニアヌス45歳。
彼の治世がここに始まります。






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posted by 佐吉 at 16:51| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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