2008年12月21日

激動の人生:ヘラクレイオス1世 その3

シリア、エジプトをササン朝ペルシアに
奪われたヘラクレイオス1世。
9年間の傍観の後に、両地方を回復するために
雄々しく立ち上がります。

時に622年。

9年間の傍観の後に立ち上がったのは、
姪のマルティナとの近親結婚を国家に認めさせようと
考えたため・・・とも考えられています。

ヘラクレイオスは、国境地帯を数年間転戦した後・・・
ペルシアの首都クテシフォンを一気について決着を
つけようとします。

ドラマチックですね。
敵首都を一気につく事でシリア、エジプト駐屯のペルシアの
兵力を引き上げさせようとしたのでしょうか・・。


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彼の目論見はあたります。628年にペルシアは全面降伏。
奪い去られていたシリア・エジプト及び
キリストが磔にされたという聖十字架の返還を受けます。
東ローマ帝国は再び地中海を支配する大国となりました。


戦勝による栄光、それにより愛する姪との結婚も認められ
ヘラクレイオスの人生はこの時、絶頂であったでしょう。


・・・・しかし残念ながらその絶頂は長続きしませんでした。
中東の辺境、アラビア半島では当時一つの宗教が
勃興していました。
イスラム教です。創始者ムハンマドは632年に
なくなりますが、その後この宗教は猛烈な勢いで
拡大を始め、ペルシア、東ローマ両帝国に襲い掛かります。



636年シリアのヤルムークにて東ローマ軍とイスラム軍が
激突。東ローマは大敗します。
これが、数百年続いたローマのシリア支配の最後となりました。
ヘラクレイオス曰く
「シリアよさらば!なんとすばらしい土地を敵に渡す事か!」と叫んだそうです。


彼の功業は10年持ちませんでした。この後もイスラムの進出は
続きましたが、彼はなすすべがないまま、640年に病没します。

エジプトは彼の死後641年にイスラム帝国のものとなりました。
プトレマイオス朝エジプトの滅亡より実に600年のローマの
エジプト支配。遂に終焉を迎えます。

ギボンは、ローマ帝国衰亡史の中でこう述べています。
「ヘラクレイオス以降ビザンティウムの舞台は縮小し、暗転する。」と。

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posted by 佐吉 at 10:29| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月14日

激動の人生:ヘラクレイオス1世その2

東ローマ皇帝となったヘラクレイオス1世。

しかし彼の時代から帝国の領土は決定的に縮小に向かいます。
まず、ササン朝ペルシアとの戦争により、シリアとエジプトを
奪われます。

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613年、ヘラクレイオスの率いる軍がペルシアに大敗したのです。
この時、イエスキリストが磔になったという聖十字架もペルシアに
持ち去られます。


シリアとエジプトの喪失は、東ローマ帝国にとって大きな
ダメージでした。
これらの東方の属州が、当時最も文化も進んでおり、
豊かな地域とされていたからです。

ゲルマン民族の進入に東ローマ帝国が耐えられたのは、
これらの豊かで無傷の東方の属州があったればこそです。

特にエジプトはローマ帝国最大の穀倉地帯であり、
首都で市民への食糧供給を行う際に絶対に必要な属州でした。

これに対してヘラクレイオスは何をしたかというと・・・
10年近く何もしませんでした。
これが、英雄の謎の無気力とされています。

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posted by 佐吉 at 08:31| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月09日

激動の人生:ヘラクレイオス1世 その1

7世紀に皇帝となったヘラクレイオス1世。
彼の時代から、東ローマ帝国は重大な歴史の転換点に
本格的に突入します。


ヘラクレイオス朝の項目でも少し触れましたが、
彼の時代から東ローマ帝国は、
地中海を湖とする大国から
バルカン、小アジアを核とする軍事国家へ転換していきます。


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彼はカルタゴの出身です。
同名の父親が、カルタゴの総督でした。


7世紀始め、東ローマ帝国は暴君と呼ばれるフォーカス帝に
支配されていました。彼は軍隊の反乱から成り上がったために、
確固たる後ろ盾を持たず、このため強権的な政治を行い、
政治が乱れていました。


このような状況を見てヘラクレイオス(父)は、皇帝打倒のため
挙兵。ヘラクレイオス(後の皇帝)に兵を授け
コンスタンティノープルに向かわせます。

コンスタンティノープルでフォーカスとヘラクレイオスは対決。
結構有名なやり取りが、以下のとおり。
ヘラクレイオス「お前が国家を統治したあげく、この様か。」
フォーカス  「ならお前はもっとうまく納められるというのか。」

この直後にフォーカス帝は部下に殺され、
ヘラクレイオスは皇帝となります。


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posted by 佐吉 at 06:53| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

ヘラクレイオス朝の時代

7世紀のヘラクレイオス王朝がいわゆるローマ帝国の古代から中世への
重要な転換点であった事は、間違いないでしょう。

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まず領土ですが・・・・
ヘラクレイオス王朝成立時は、東ローマ帝国の領土は、地中海を
包み込んでいました。
その主な領土は、スペインからイタリア、バルカン半島、小アジア、シリア、エジプト、北アフリカでした。

ところが、ヘラクレイオス朝滅亡時には、バルカン半島、小アジア、イタリアの一部と著しく縮小しています。

言語も変わりました。
公用語はラテン語からギリシャ語に変わります。

要するにヘラクレイオス朝の100年間の間に東ローマ帝国は、
文化的にも領土的にもギリシャを中心とする国家に変貌したのです。

ギボンもローマ帝国衰亡史の中で述べています。
「ヘラクレイオスの時代以後、ビザンティウムの縮小し、
暗転する。」
と述べています。
確かにいわゆるローマ帝国らしくはなくなりましたね。


ヘラクレイオス朝については、下記の本が詳しいです。
ユスティニアヌスからヘラクレイオス朝全般について
述べられています。
西欧との関係が、ヘラクレイオス朝時代の中でもどんどん
変化していきます。
7世紀の西欧における東ローマ皇帝の位置づけが
わかって面白いですね。
表紙が無いのが・・・残念です。


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posted by 佐吉 at 16:14| Comment(0) | 東ローマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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